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          浄土真宗と天皇

 

     1、本願寺と皇室の深い関係        

        2、親鸞聖人と聖徳太子          

        3、日本らしさの始まり聖徳太子   

           4、天皇家はもともと仏教徒                                  

         5、三島由紀夫と天皇

      6、マッカーサーと天皇

       〈追記〉三島由紀夫について

  天皇の歴史を語ることは、日本の歴史を語ることでもありますが、古代、戦国時代、近代で、そのおかれている立場は目まぐるしく変化してきました。戦後の日本国憲法では日本国民統合の象徴となり、側室制もない中で万世一系とされる天皇をどうやって守ってゆくかが国民の関心事です。

 25代武烈天皇(499~506)には子供がなく、傍系の継体天皇(507~531)が5代遡った15代応神天皇の子孫として天皇となり武烈天皇の姉がその26代継体天皇の皇后となっています。この時代は豪族の権力争いが絶えず天皇の地位も危ういものでした。推古天皇は天皇の地位を盤石にして国を安定させる為、多くの犠牲を払いながら仏教を国教として迎え入れます。その為に摂政に選んだのが聖徳太子なのでした。聖徳太子の偉大な功績により仏教が国教となり今の日本が生まれたのです。親鸞聖人が聖徳太子のことを篤く敬い褒め称えられている意味がここにあります。

 

1、本願寺と皇室の深い関係

 本願寺は、親鸞聖人ご往生の10年後に御影堂が建立され90代亀山天皇から「久遠実成阿弥陀仏本願寺」の名を頂いて勅願寺となりました。このことから後に本願寺と名乗るようになったのです。亀山天皇は本願寺の庇護者でした。このことから本願寺阿弥陀堂では亀山天皇の祥月命日であります10月12日には毎年、亀山天皇聖忌法要が勤められています。

 

 近代では最後の藤氏長者で公家の九条道孝(明治39年没)は大正天皇皇后の父であり、三女の籌子様が本願寺22代大谷光瑞門主(鏡如上人)の御裏方です。又その光瑞門主の妹である武子様は九条道孝氏の子九条良致(よしむね)に嫁ぎ九条武子様の名で本願寺でご活躍されました。大谷籌子御裏方と九条武子様のお二人は仏教婦人会の基盤を作り、京都女子大の設立に尽力されたお方です。本願寺の象徴として、あらゆる寺院でも使用されている下り藤の紋ですが、これは第10代証如上人が九条家の嫡子となられてからとも、籌子様が本願寺に嫁ぎ持参されたからとも言われています。下り藤紋は皇族と関わる九条家ゆかりの家紋なのです。

 

2、親鸞聖人と聖徳太子

 親鸞伝絵の第一段には「聖人は皇太后の大進、有範の子なり。しかれば朝廷に仕えて霜雪をも頂き射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人」とあります。藤原氏は神話に由来した朝廷に仕えた身分。親鸞聖人はご自身の身分については一言も触れられていませんが、天皇に対する崇敬の念は、仏教を国教にして国を治めようとされた聖徳太子のことを詠まれた和讃によって伺い知ることができます。親鸞聖人は聖徳太子を褒め称える和讃を十一首作られています。それが「皇太子聖徳奉讃」です。聖徳太子の呼称をすべてに聖徳皇(皇太子)と記され大きく褒め称えられるのです。

 

 「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 一心帰命したてまつり奉讃不退ならしめよ」

  日本のお釈迦様ともいえる聖徳太子のその広大な恩徳は、謝しても謝しきれない程です。

  一心に阿弥陀仏に帰依し、太子をほめたたえて怠ることがあってはなりません。

 

 「上宮皇子方便し和国の有情をあわれみて 如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉讃せしむべし」

  聖徳太子は、巧みな手だてでもって、日本の生きとし生ける者を憐れみ、阿弥陀仏の大悲の

  誓願を弘宣して下さいました。そのことを大いに慶び、褒め讃えなければなりません。

 

3、日本らしさの始まりは聖徳太子から

 古代、日本に天皇の元となる最初の大王(おおきみ)が生まれ、国をまとめようとしますが、それぞれの豪族が違う神を信奉していては、永遠にまとまることはありません。最終的には古事記が編纂されたことによって天皇の地位は不動のものとなってゆきますが、その前に起きた崇仏派蘇我馬子(大臣)と廃仏派物部守屋(大連)の内乱、「丁未の乱(物部守屋の変)」での勝敗こそが日本の将来を運命づけました。蘇我氏が勝利し、推古天皇が仏教を取り入れたことにより独自の日本文化が生まれ、日本人の魂となり育っていったのです。 

 欽明天皇は538年百済の聖明王から仏教を「公伝」されるのですが、朝廷は蘇我氏物部氏の二大勢力の対立によって二分されました。欽明天皇の次の代、敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇は両派の争いに翻弄されながら短命に終わります。蘇我馬子はついには物部守屋を滅ぼすしか国の未来がないとして挙兵します。この時、蘇我氏と血縁のある聖徳太子は四天王の像を彫り勝利祈願を行いました。聖徳太子の名、厩戸皇子(うまやどのおうじ)の由来は馬子(うまこ)の家で生まれ鋭才教育を受けていたからではないかと思われます。

 親鸞聖人は「善光寺如来和讃」を五首詠まれていますが、これは蘇我馬子の建てた寺院に火をつけ、仏像を放り捨てた物部守屋を激しく批難して詠まれたものです。善光寺如来とは信濃の善光寺の阿弥陀如来像で仏教伝来の折、百済の聖明王から欽明天皇へ贈られた仏像です。これを廃仏派の物部尾輿は疫病が流行したことを理由に、浪速の堀江に投げ捨てました。この像を信濃の国司、本田善光(よしみつ)が持ち帰り、その後に皇極天皇によって寺が創建され祀られました。「善光寺」の名の由来はこの善光(よしみつ)から取ったもので、善光寺如来は日本最古の仏像とされています。 

 日本最初の女性天皇である33代推古天皇は29代欽明天皇の皇女でした。30代敏達天皇は異母兄で夫。推古天皇は31代用明天皇の皇子で甥となる聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に用います。このことによって日本は大きく国として動きだします。

 

 聖徳太子の定めた「官位十二階」による中央集権化は天皇(大王)の地位を確固たるものとしてゆきます。そして遣隋使を派遣し大陸の文化を積極的に取り入れようとします。それは仏教文化の確立でした。後に茶道、彫刻、建築技術など数えきれない程の物そして制度がもたらされ日本に根付く中でそれぞれが独自に洗練され育っていきます。華道は京都の頂法寺(六角堂)の仏様に供える花として生まれました。池坊の名は聖徳太子が沐浴した池に由来しています。これらが日本人の魂として練り上げられていったのです。経典を学ぶことによって漢字を学び、かなやカタカナへと発展してゆきます。普段気づいていないかもしれませんが私たちはあらゆる所で仏教の精神が息づいた儀礼、作法の中で生活しているのです。

 そして聖徳太子のもう一つの大きな功績は日本最初の憲法「十七条の憲法」の制定です。そこには人の心構えが示され、天皇に従い仏法を敬うことが中心に書かれています。そして作法が整えられていきます。仏を敬う姿勢により礼儀作法が整えられたことは、人の上に立つ者の姿勢が整えられたということで、後に武士が台頭してきても常に朝廷が一目置かれ儀礼を学ぶべき存在となったことの意味は大きいのです。

 

、天皇家はもともと仏教徒

 天皇家はもともと仏教徒であることがお分かりになると思います。天皇=国家神道という図式は慶應4年の神仏分離令(廃仏毀釈)からさきの敗戦までの77年間に過ぎません。明治政府は錦の御旗を掲げ天皇を利用することによって維新(クーデター)を起こし、廃仏毀釈にいたっては推古天皇、聖徳太子の功労も忘れ仏教も皇室をも破壊していたのです。45代聖武天皇(749年崩御)より明治天皇の父孝明天皇(1866年崩御)までの葬儀は仏式で行われています。そして歴代天皇の祥月命日には、東山の泉涌寺へ皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝しておられます。明治政府が行った神仏分離令は仏教と神道の関係を破壊し今日の分断を作ったのです。

 日本人は古代より自然に対しては神が宿るものとして畏敬の念を捧げ、一方で仏教を生活の上での規範として尊く敬って歩んできた民族です。決して相反するものではないことを聖徳大師は他の豪族に対して示した方でした。

 

5、三島由紀夫と天皇

 2020年は三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自決を遂げてから50年、三島由紀夫VS東大全共闘の映画が公開されました。自決の一年半前に行われた東大全共闘との討論会のドキュメンタリー映画です。その討論は、三島由紀夫と全共闘学生の考え方を知る上でとても貴重なものです。その討論の中心となった学生、芥正彦氏は自分を「国籍など持たない自由人」だと称し、天皇を完全否定する立場。これに対し三島氏は「自分はどこまでも日本人であり、それを超えようとも思わない」と公言し、そのベースに天皇というフィルターが絶対必要とする立場。これはどこまで討論しても平行線のまま折り合うことはないので、芥氏は途中で「もう退屈なので帰る」と言って去ってしまいました。芥氏は弁が立つので討論に呼ばれていましたが、革命というより前衛芝居のパフォーマーである為、他の全共闘学生らとは立ち位置がやや異なっており、他の学生から「おまえさんのは単なる観念論ばかりじゃないか。全共闘の名が廃るぜ」と揶揄されていました。 

 

 三島由紀夫が学生から天皇について話を振られて語ったことに対し、会場にいた全共闘学生、盾の会のメンバー、そして三島を研究している学者が当時を振り返り三島の考える天皇とは何かを語っています。

 

 三島由紀夫の講演

 「・・・日本の民衆の底辺にあるものなんだよ。それを天皇と呼んでいいかどうか僕はわからない。それをたまたま僕は天皇という名をそこに与えるんだ。それをキャッチしなければだね、諸君も(闘いが)成功しないし、僕も成功しない。」

 

(以下は当時の三島の言葉を振り返って)

 

木村 修(全共闘側で進行役を務めた人)

「(天皇が)日本社会全体の救済概念(という事)ですね」

 

  宮澤章友(盾の会一期生)

「日本の文化、伝統とは何か。そのつまりは天皇に集約されると・・・。」

 

内田 樹(三島由紀夫を研究する神戸女学院大学名誉教授)

「日本人をつき動かす無意識的なエネルギーの源泉。それを一気にグーっとフォーカスするような象徴って言うんでしょうか、政治的象徴、表象と言うんでしょうか、それを三島の場合は天皇という言い方をしているわけです。」

 

 又同じ右派でも石原慎太郎は三島由紀夫との対談の中で、天皇制を必要とは思うけれども最後に守るべきものとは考えていないと語っていました。それに対して三島由紀夫は、日本がどんなにぶれようとも、揺れ戻す力を持っているのは天皇の存在しかなく、外国から見て何が日本かという指標となるものが天皇なのだと語っています。昭和天皇を知らない現代人にとっては三島由紀夫のこの天皇論は理解しづらいかもしれません。戦後になって左派の人達は「天皇制は権力であり差別だ」と言い始めました。そこにはコミンテルンに由来する天皇制を貶める負のイメージ工作がありました。日本という国(日本らしさ)を損なうのに、一番大きな障壁となるのが天皇だったからです。ですから三島由紀夫は天皇は日本の民衆の底辺(基盤)にあるものだと言っているのです。

 

6、マッカーサーと天皇  

 マンハッタン(原爆開発)計画に携わっていた米国の指導者らは日本の国体(天皇制)を護持したままの降伏を拒否し続けました。原爆を落とすこと自体が目的だったからです。この計画の中心人物グローブス准将は日本各地に次々に原爆を落とす計画を進めていました。長崎への原爆投下後トルーマン大統領がグローブス准将の嘘の説明や報告に気付かないままで計画を止めていなかったならば、日本はもっと悲惨なことになっていました。そして原爆投下後に米国は、天皇制存続をあっさり認めました。マッカーサーは天皇の存在無しには日本の統治は決してなしえないと分析していました。

 昭和天皇は日本中の誰よりも平和を望んでいた人でした。満州の張作霖爆殺にも二・二六事件の時も怒りを隠さず、国連脱退にも強く反対していた人です。しかし軍部と政府との対立、陸軍の暴走などの要因から戦争を回避する事が出来なかった責任を一身に背負った昭和天皇は、無条件降伏後に自らマッカーサーのもとに出向き「全責任は私にある。自分は極刑になってかまわないので他の者を罰しないで欲しい」そして「どうか国民に食料を与えて飢えないようにして欲しい」と懇願しました。マッカーサーはその時、天皇と日本国民の関係性を深く理解し「国民に食料を届けることを、約束します」と天皇に深く敬意を払っています。戦後の昭和天皇の全国行脚の姿に触れた多くの国民は、ソ連の工作にもひっかかりませんでした。シベリアに抑留され洗脳された日本人の一部が天皇打倒の工作員として一早く送られて来ましたが、彼らは昭和天皇の姿を前にすると洗脳が解けたといいます。三島自体も学習院高等科を主席で卒業した際、天皇から銀時計を授与されていますが、その時の天皇が3時間木造のごとく微動だにしなかった姿に感動を覚えたと言っています。世界中で国の頂点に立つ者は皆奢った振る舞いをしがちですが、日本の天皇の姿は常に真逆でした。

 表には出ないだろうと言われる話としてですが、真宗内には明治天皇が本願寺の21代明如上人に教えを請い帰依し阿弥陀如来を讃える歌が伝わっています。

「限りある身をば 六字(念仏)にまかせつつ やがて来にける蓮華をぞ待つ」(明治天皇)

 

 日本人が戦前、戦後と天皇陛下へ対し抱いてきた思いは善悪の範疇にはありませんでした。太陽や月の如く常に自然と共にそこにある存在だったのです。イデオロギーなどによる誤った負の偏見を取り除かない限り、三島由紀夫の「日本の民衆の底辺にあるもの」という言葉は理解することができないでしょう。

                                                                                              

追記〉三島由紀夫(1925~1970)について

 1970年(昭和45年)11月25日、世界的に有名な小説家であり、映画にも出演し、演劇の演出家でもあったスターの三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地での自衛隊への決起演説。そして演説を終えての総監室での割腹自決には日本中が衝撃を受けました。大儀ある死を望み老死や病死を一番嫌っていた三島由紀夫。「葉隠れ」を愛読し武士道に憧れ、刀への愛着がありました。「憂国」を読むとまるで自刃のシミュレーションをしているかのようです。

 学生運動が吹き荒れた時代、左翼の暴動に対する民兵組織(後の「盾の会」)を結成しました。クーデター計画と云いながら本心はクーデターなどではありませんでした。自分の決起で自衛隊が同調することはないと分かっていましたし、市谷駐屯地に向かう車の中で、「三時間後に死ぬとは思えんな」などと話していたのですから。天皇中心の国作りを願い、刀を愛し、心通じあう同志を欲していた彼の行動は、彼が憧れていた明治の勤皇派「新風連」をなぞっていたのでしょう。昔のインタビューの中で、「今は大儀がない。民主主義の形態では仕方ないのだろうけれども、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるという心理状態が(自分の中に)存在する」と語っていました。 

 誰もが遠くない彼の死を予感していました。本来はおもしろい事が好きな人で、何にでも興味を持ち、小説を書けばその小説の主人公になりきろうとします。「禁色」を書けばその手の酒場に通って同性愛者になりきろうとし「美しい星」を書けばおかしな格好をして宇宙人に遭おうとする。作家仲間に笑われながらも本人はいたってまじめでした。「盾の会」のきらびやかな制服は、スタイルやカメラアングルにこだわる三島のダンディズムの表れであり又演出家三島の一面でした。しかし「英霊の声」執筆の時には、二二六事件の将校達が憑依したように見えてとても怖かったと母親が語っていたようです。

 

「豊穣の海」は「春の海」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と輪廻転生をテーマとした4巻(新潮連載)で1965年から5年に及ぶ執筆です。三島の二つ年上の浄土真宗僧侶で東大印度哲学科卒の早島鏡正氏は三島由紀夫が手紙で輪廻転生について聞いてきたことを正信偈講話の中で話していました。三島は「暁の寺」の連載を書くにあたり複数の仏教学者に手紙で質問をしていました。ここで三島の知識欲が「唯識」にまで及んでしまったことが連載の中身を変えてしまいました。仏教哲学ともいえる唯識の阿頼耶識を持ち込んだことによって「暁の寺」は輪廻転生の物語が思いもよらぬ方向へ向かって破綻してしまいます。人の認識を超えた深い場所にある「種子の蔵」の深みにはまりこんでしまいました。「暁の寺」を書き終えた三島は「実に実に実に、不快だった」と語っています。連載でなかったなら小説の行方は全く違うものになっていたでしょう。「それは私の自由でもなければ、私の選択でもない。(しかし)作品の完成とはそういうものである。」と語っていました。最後の「天人五衰」では全巻を貫いて登場する本多の見てきた世界は本多の阿頼耶識の所産で、本当は全部無かったことではないのかと思わせるせる物語となっています。三島は「天人五衰」の中心人物である安永透が(松ヶ枝清顕の輪廻の)偽物か本物か分からなくしていると語っていました。 

 小説の最後に「この庭には何もない 記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」と、本多の虚無感、絶望感をこう著した三島由紀夫の心境はどのようなものだったのか、読み終わった後に誰もが心にぽっかりと穴が開いたように感じた筈です。三島はこの「天人五衰」を書き終えた擱筆日を自決の日11月25日としました。読者や評論家を引っ掻き回す仕掛けをたくさん残して三島由紀夫はこの世を去りました。

 三島の死後、自宅の書斎の机から「限りある命ならば永遠に生きたい。三島由紀夫」と書かれたメモが発見されています。

           2022年(令和4年)2月20日 

                          釈 崇哉

                                

                              

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