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     玉日姫は存在した

 

 

   2012年6月京都伏見区の西願寺の玉日姫御廟所と言われる墓の発掘調査があり、砕けた骨つぼと人骨が発見されました。この墓は1852(嘉永5年)に大修復された文献が存在しており、そのことが証明されることになりました。そしてこの玉日姫廟所には江戸時代後期まで九条家の人々が参拝に訪れていたことが分かっています。何もないだろうと思われていたところから骨つぼと遺骨のかけらが見つかった大発見なのですが、教団内では大きく取り上げられることはありませんでした。九条兼実の娘、玉日姫は親鸞聖人の法然門下でご結婚された最初の妻とされてきた方です。多くの文献に表れながらも歴史上の人物として立証できないとして近代、本願寺の歴史から、いつのまにか消しさられてしまいました。逆に三善為則の娘、恵信尼公は大正時代に本願寺の蔵から発見された恵信尼文書により越後時代以降に間違いなく存在した妻であったことが明らかになります。これらのことから恵信尼公

が玉日姫と同一人物であるという説まで生まれました。

 

     親鸞聖人の御生涯は、本願寺においては覚如上人が聞き書きし作成された親鸞聖人伝絵がもとになっています。しかしその伝絵には謎も多く、聖人の生涯の核心部分と言っても良い法然門下入室に至る経緯やご結婚についてのご様子が見られません。六角堂の夢の示現の「行者宿報設女犯」の文だけがご結婚をにおわすものとして浮いたように存在するのはおかしなことです。ただ当時、僧の結婚は破戒とされていただけに伝道絵巻として現すことが困難であった事は考えられるでしょう。しかし不可解なのは、赦免後のご様子です。越後流罪中に法然上人の御往生が聖人の耳に届き、帰る理由がなくなったと言って、赦免後に関東に向かわれる事などあるのでしょうか。親鸞聖人は法然上人のことを阿弥陀如来の化身とまで仰いでおられたのです。高田派の「正明伝」には赦免後、法然上人の墓と玉日姫の墓に参られたご様子が詳しく書かれています。また当時の流刑人は赦免後、役人が責任を持って連れ帰るのが決まりだったと言います。この墓参りは法然上人を慕う聖人の大事な場面の筈です。実は親鸞聖人は京都へ戻られなかったのではなく、玉日姫の墓参りが含まれていることによってその部分がわざと「伝絵」から省かれたと見る方が自然なのではないでしょうか。親鸞聖人の御往生後、聖人の墓を相続することは、血脈の正当性を示すことにあたります。覚如上人は父覚恵の異父弟の唯善のみならず玉日姫の子である範意の娘の子源伊との間でその相続を争っていたといいます。覚如上人が本願寺の存立と宗派全体の統一を考えておられたとすれば、相続の権利を渡すことなどできなかったでしょう。

 

 高田派に伝わる「親鸞聖人正統伝」「正明伝」仏光寺派に伝わる「親鸞聖人御因縁」は親鸞聖人の描かれなかった歴史の大事な部分を自然に埋めています。覚如上人の子の存覚著とされる「正明伝」などこれらの文献について山田文昭(1877~1933)は、作者も内容も全て偽作と断じましたが、矛盾を証明するものはなく、詳細に書かれた中身を読めばかえって偽作と断ずることの方がむずかしいように思えます。また山田文昭は「正明伝」に突然怪奇談が五つ表れることをもって偽作の根拠にしたようですが、梅原猛は当世の密教の怨霊鎮魂の社会事情と関係しており何の矛盾もなく、逆にその時代に書かれた証拠であると言っています。そしてその中で怪奇性のもっとも薄い、三番目の山伏弁円の話だけを覚如上人は絵伝に採用しているというのです。確かに弁円の話は夢告などではなく、実話として描かれている中で不思議な物語であるのにはそのような理由があったのかと納得できます。

 

 恵信尼公が二番目の妻であったであろうことは聖人が善鸞に充てた手紙に「継母(ママハハ)に言い惑わされたると書かれた事、殊にあさましきことなり」と書かれていることから明らかでしょう。これは「まるで継母のようだ」という意味だとする説は苦しい解釈に感じます。それならば「継母」の前に「あたかもと」という言葉が入る筈です。本願寺系図の別本には、「印信(範意)」並び「善鸞」は「母月輪関白兼実公女」とあることは、その裏付けとなっています。つまり法然門下で九条兼実公の娘、玉日姫との間に二人の男子「印信(範意)」「善鸞」、流罪後に三善為則の娘、恵信尼公との間に覚信尼の他四人の子がいたと見るのが自然です。新潟の町内には後の四名の子らの名前「栗沢」「益方」「高野」「小黒」の地名が存在しているといわれます。

 

 玉日姫が聖人御流罪後二年程で京で亡くなっていることが事実と見れば、元々お身体が弱かったのか産後のお身体の具合が関係していたのかも知れません。それで越後之介三善為則の娘恵信尼公が玉日姫に代わり越後への聖人のお付き人をされたと考えられます。当時遠流には妻をともなう習わしだったというのですから。一連の足跡を考えますと御流罪が解かれ一旦京へ戻られた聖人は法然上人と九条兼実の娘で正室の玉日姫の墓参りをし、再び越後へ戻りやがて家族をともない関東へ移り学問と布教に専念される。後年、恵信尼公と京に戻り、恵信尼公はやがて領地と子らの関係で越後に再び移られたと考えます。蓮如上人の子「実悟」編纂の「日野一流系図」には親鸞聖人の最初の子範意(印信)について母親は「月野輪殿 九条兼実女」とはっきりと記されていることから梅原猛は玉日の実在を否定することは御都合主義で説得力がないのではないかと書いています。また第23代勝如上人のお裏方大谷嬉子様は1980年に研究を重ね出版された「恵信尼公の生涯」の中で「私は内室二人説をとる」と書かれています。恵信尼文書の発見の後、その高貴な筆跡と文章力もあいまって恵信尼公は教団の中で聖人の理想的伴侶象として崇拝されるような存在となってゆきました。これに呼応するかのように御正室であった玉日姫は存在が次第に消しさられていったように思えてなりません。玉日姫の存在証明にこれ以上のピースが必要なのでしょうか。

       2019(令和1)年11月5日 

                                                        釈 崇哉

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