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万徳寺沿革

 

 
 万徳寺は親鸞聖人が入寂されてから237年後の明応八年(1499年)本願寺中興の祖、蓮如上人が入寂された年に初代空心(俗称佐藤氏)が菩提心を発し、御当流に随喜して小庵を営み、遠近道俗に信心を勧化したことに始まります。明応八年は第百三代後土御門(ごつちみかど)天皇の時代、足利義澄十一代将軍の時代です。
 
永禄二年(1559年)小庵を相続した第4代覚玄住職は本願寺が織田信長と十年戦った石山合戦に門徒勢を率い馳せ参じたことが、筑前国続風土記附録に「顕如上人の時、忠ありて懇遇せらる」と記されています。
 
その功により慶長十年(1605年)第6代法春は、本願寺12世准如上人御判にて本尊木像と寺号を賜り、万徳寺本堂が建ちました。
慶長十年は第107代後陽成天皇の朝で徳川秀忠2代将軍の頃です。
 
 
 
 
 
「筑前国続風土記附録」より


万徳寺 シモスガワ、本編に出たり。真宗の西。仏堂七間四面。

朝闇山と号す。京都本願寺に属せり。開基は空心といふ。顕如上人の時、忠ありて懇遇せらる。

筑前八箇寺の第一なりといふ。慶長十年九月、寺号木佛を許さる。

 

 

 

 

 万徳寺の山号、朝闇山(ちょうあんざん)は地名の朝倉(あさくら)の元の漢字です。

 斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は百済から復興のための救援要請を受け、翌年の5月9日に朝倉橘広庭宮に遷り、戦に備えました。しかし7月24日、僅か滞在75日でこの地で崩御されます。朝倉市須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており、「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられています。

 「あさくら」の由来は、一説には後背にあたる麻氏良山(までらさん)の山上に社(やしろ)が鎮座し、人々がその山上に登る太陽を拝み神の朝の座(くら)と崇めたからだといわれています。「朝闇」、又は「朝鞍」の字が充てられていたようです。

​本堂完成(平成7年)

 平成3年(1991年)9月27日に長崎県佐世保市に上陸した大型台風19号は日本全国に甚大な被害を及ぼしました。この台風によって二百五年前に建てられた万徳寺本堂は正面の扉が全て吹き飛ばされ、外陣側天井を破り後堂側屋根に大きな穴を開けました。

 それからわずか4年後の平成7年、門信徒の御懇念によって、伊勢神宮の遷宮の際に使用されることで有名な尾州桧を使った本堂、鐘楼が建ちました。   

 尾州桧は秋田杉、青森ヒバとともに日本三大美林のひとつとされています。

万徳寺の開基500年(平成10年)

 蓮如上人ご入寂の年に初代「空心」が小庵を営み道俗を勧化したことにより始まった万徳寺は、1998(平成10)年、蓮如上人の五百回忌と万徳寺の開基5百年とを勤めるにあたり、平成七年に完成した本堂鐘楼の落慶法要、そして二十二世となる住職の継職法要もを併せて勤めました。

 はからずも平成10年は四大法要を一辺に勤修する記念の年となりました。山田行雄和上や僧侶でもある松林宗恵映画監督を講師にお迎えし盛大に法要が勤まりました。

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