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                     まはさてあらん とは ?

                                                   

      1、寛喜三年の出来事

  

    寛喜三年、親鸞聖人が風邪で臥してその四日目の明け方に突然発せられた言葉「まは    さてあらん」。この言葉にはさまざまな解釈がなされていますが、概ね「本当はそうであろう」「ああ、そうであったか」と聖人の人間らしさのうなずきのように訳され多くの出版物の中でも用いられています。   

 親鸞聖人は寛喜三年五十九才の時、風邪に臥して二日目より大経があふれ出て目を閉じてもお経の文字が一文字一文字浮かんできたことに対し、これはどうしたことだろうと考え十七、八年程前の佐貫に立ち寄った時のことに起因するようだという思いに至られます。おそらく水害と思われる佐貫での出来事で衆生利益の為と思って三部経を読み始め、途中で「自信教人信こそが仏恩に報い奉る行為で、名号の他に何の不足があって経を読もうとしたのだろう」と思い返し、読むことをやめられました。その時のことが心の奥に残っていたのだろうかと考え、無意識ではあっても「人の執われの心、自力に対する心はよくよく考えねばならない」と思ってからは高熱の中、経を読む事が止まり「まはさてあらん」の言葉を発せられ、汗をかかれて回復されたのでした。「まはさてあらん」は翻訳が難しかった為、前文を受け「人間とはそういうものだなあ」というような意味で翻訳されました。しかしこのことが自力を肯定してしまい、「自分の信仰がいまだにぐらついていることを恥じた」とか「自らが苦しいときに、自力に頼り読誦の行を試みてしまう」などと書かれ、それが聖人の人間らしさのように語られ拡散してしまったのです。

 

 しかし文法的に調べてみますと「まはさてあらん」を「本当はそうであろう」「ああ、そうであったか」と翻訳することには、無理があるのです。文脈から何とかつじつまをあわせようと苦心されたようですが、この解釈が拡散してしまったことで、「一向専修の人に於いては廻心ということただひとたびあるべし」の他力信心の性格や「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」と示された聖人の純粋な他力のお心を私たちはずっと傷つけているのではないかと案じてならないのです。では何とおっしゃったのか、親鸞聖人は「魔は去てあらん(魔は去ったようだ)」と言われたのです。このことについて解読してまいります。

2、文法的問題点  「さてあらん」

 

  「まはさてあらん」は「まことはそうであろう」と翻訳されていますが「まは」の「ま」に「真」が充てられたことと「さてあらん」が「そうであろう」と翻訳されたことの両方ともに文法的問題があります。先ず「さてあらん」ですが、これは「然て(そのままで)」に「あり」の未然形「あら」と推量の助動詞「む(ん)」をつなげて「そうであろう」と訳しているのですが、「そうであろう」にあたる古語は「然てあらん」ではなく、「さもあらん」又は「さもありなん」です。そして何よりも徒然草の中に「あはれ、さるめり(ああ、そうであるようだ)」という言葉が存在しています。これほど「そうであろう」の訳にふさわしい言葉もないでしょう。「然てあらん」は「そのような状態であるだろう」という意味であり、又意思の助動詞の「あらん」とすると「そのままでいよう」と訳されます。古語辞典にも見当たらない「さてあらん」ですが、ある本の中に出てまいります。室町時代に成立した御伽草子「塩焼文正」別名「文正物語」です。その中に「かくきこえんまては、さてあらん」とあるのです。「かくきこえんまでは」というのは文正(文太)という主人公の娘に起こった出来事が、文正の主(あるじ)である鹿島大明神の大宮司殿の「耳に入るまでは」という文脈で、「せめて大宮司殿の耳にいるまでは、そっとしておこう」と訳されています。「そっとしておこう」まさに「そのままでいよう」という意味で使われているのです。そこでこの本来の翻訳を使って読んでみると、自力のしんは思慮あるべしと思いなしてのちは経を読むことが止まった「だからそっとしておこうと言ったのだ」ということになりますから、この正しい翻訳でも意味が通じないのです。

3、文法的問題点  「ま」とは何か

 

   次に「まは」ですが、「真は」の字を充てて、「本当は」と訳されています。しかし古語では「真」は「まこと」或いは「しん」と読まれています。徒然草には「まことはあいなきにや(真実はつまらないのであろうか)」とあります。真・実・誠など、これらの意味で使われる言葉は「まこと」と書かれているのです。真を「ま」と呼ぶのは、名詞や形容詞に付いて意味を成す接頭語の時です。真心(まごころ)、真砂(まさご)、真白(ましろ)などです。ですから「真(まこと)は」を「まは」と言ったとすれば、その言葉を聞いた人は全く理解できません。分からなかったとすれば、今何とおっしゃったのですかと聞きかえす筈です。恵信尼公はその言葉を自然に理解できたからこそ「たわごとですか」と言えたのです。そして親鸞聖人も淡々と「たわごとにてもなし」とそのわけを説明されます。「本当はそうであろう」と訳すことは無意識に飛び出る経が止まったという答えになっておらず、意味不明なのです。「今はさてあらん(これからはそうしよう)」という翻訳もありますが、「これから」に値する古語は「のちは」ですし「今は」であれば、「もはや」「今となっては」という訳になります。「まは」が「真は」や「今は」でないとすれば、浮かびあがる言葉は「魔は」なのです。親鸞聖人が病が回復する直前にもらした言葉は単純に「魔は去てあらん(魔は去ったようだ)」なのです。去ては「去りて」の促音便「去って」の「っ」が省略されたもの。苦しい病の中で何故経の文字がつぶさに浮かんだのかの悩みが解けてから発せられた一番ふさわしい言葉こそ「魔は去てあらん」でした。「魔」はサンスクリット語のマーラの音訳で仏事を妨げ、人の心を惑わすものの事。歎異抄には「魔界・外道も障碍することなし」とあります。四日間も命にかかわるような高熱に苦しみ、しかも止まらぬ経に対して「何が心に引っ掛かっていたのだろう」という悩みが、意識がもうろうとする中で、やっと解決できたからこその答えが「魔は去りてあらん」でした。

 

4、親鸞さまははっきり自力を否定されている

 親鸞さまは恵信尼さまの問いに対して、はっきりと自力を否定しておられます。まず無自覚のうちに大経があふれでていたことに対して、「これこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかに何ごとが心にひっかかっているのだろう」と言われています。そして佐貫の出来事を語られます。佐貫では多くの人が亡くなっており村人より経を読むことを強く懇願されたのでしょう。当時三部経を読めるような僧はめったにいなかった筈ですからその願いに何とか答えようとされたことが想像できます。しかし「自信教人信こそが、仏恩に報いたてまつるものと信じておるのに、念仏の他に何の不足があって…」とおっしゃっています。つまり親鸞さまは説明の中で何度も自力を否定されているのです。自覚の上の行為であれば反省もあるでしょうが、無自覚の行為ですから充分気をつけねばという意味で語られたのが「よくよく思慮あるべし」の言葉です。その後に経が飛び出ることはなくなったのですから「本当はそうであろう」と続けることは親鸞さまの説明からは矛盾します。最初に翻訳された方の考えを察しますと「まは」という言葉が親鸞聖人の教えからして「魔」と結びつけづらかったこと、そしてお聖教に頻発して使われる「真」こそが聖人に相応しいと思えるが故にそれに捉われてしまったのではないかと推察します。そこから「さてあらん」も苦しい解釈となってしまったのではないでしょうか

5、正しい翻訳で読んでみると

 

 臥して四日目の暁、(風邪の高熱で)苦しい中「魔は去ったようだ」とおっしゃるので、「どうしたのですか。冗談でもおっしゃったのですか」と聞きますと、「冗談を言った訳ではない。臥して二日目から大経が途切れなく口からあふれだし、たまさか目を閉じても経の文字がはっきりと見えてくるではないか。これはどうしたことだろう、念仏の信心より他に何か心にひっかかることでもあるのだろうかとよく思い起こしてみれば十七、八年前、人々の助けになるならと(佐貫で)三部経千部読誦を始めたのだけれども、これはどういうわけだろう自信教人信こそが仏恩に報いたてまつるものと信ずる身でありながら、名号の他に何の不足があってもっともらしく経を読もうとしたのだろうかと思い直してやめたのだった。それゆえ(その時の出来事が)心の奥に残っていたのだろうか。人間の(何事かに)執われようとする心や(無意識に表れる経のような)自力に対する心はよほど注意深く考えてみる必要があるようだと思ってからのちは(病の中で)経が表れるようなことは無くなったのだ。そういうことで(四日目の暁)『魔は去ったようだ』と申したのだ」とおっしゃられ、やがて汗をかかれて回復なさったのでした。

       2017(平成29)年9月 

               釈 崇 哉

 

音便(促音便)について

「去て」の読みは「去って」ですが「つ」が表記されないので「去て」となりますラ行五段活用動詞「去る」の連用形である「去り」の促音便形に、接続助詞の「て」が付いた形です。「去りてあらん」→「去ってあらん」→「去てあらん」。歎異抄の「善人なおもて往生をばとぐ」がこれと同様で「も(以)ちて」の促音便である「もって」の促音「っ」が表記されない形です。「なおもちて」→「なおもって」→「なおもて」。

佐貫での出来事

 建保二年の左貫での災害を飢饉とみる人も多いのですが、飢饉の現場での三部経千部読誦など命にかかわります。鴨長明が編纂したとされる「発心集」には、建保2~3年(1214~15)頃武州入間河原の事、として、堤の中に畑や家屋があって、洪水により堤が切れ天井まで水が溢れ、家が押し流されていく様子が記されてます。左貫は利根川流域にあり水郷の地と呼ばれていました。度々水害に遭い川筋が変わり武蔵の国やらん上野の国やらんといわれた所以です。親鸞聖人が経を読まれたのは比叡山の常行三昧堂で経を読むプロフェッショナルであったことが原因だと考えられます。大工さんが家を建築し、板前さんが料理を作るがごとく、聖人が経を読むプロフェッショナルであったが故に、水害の死者で悲惨な状況下すがりつくように請われ、じっとしておられず読み始められたのでしょう。何故三部経千部なのかについては、六角堂への百日参籠、吉水の草庵へまた百日などとあるように当時は百、千という単位が行の区切りとしてあり人々の生活の中にも定着していたと考えられます。そして「何をしているのだろうか」とふと我に返られたのです。それから「さればなほもすこし残るところのありけるや」を自力の事と解釈されたりするのですが、「経を読もうとした時の記憶がなおも少し残っていたのだろうか」と解釈すべきでしょう。その前の文章に自力という言葉は一切出てきていないからです。

恵信尼文書原文

 さて、臥して四日と申すあか月、くるしきに、まはさてあらんと仰せらるれば、なにごとぞ、たはごととかや申すことかと申せば、たはごとにてもなし 臥して二日と申す日より、大経をよむことひまもなし たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆるなり さて、これこそこころえぬことなれ
 念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、自信教人信 難中転更難とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや
 人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ さて、臥して四日と申すあか月、まはさてあらんとは申すなり と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり
 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵 の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじて四五日ばか りありて、思ひかへして、よませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり

廻心ということ

「まはさてあらん」が「本当はそうであろう」「これからはそうしよう」と翻訳されたことの疑問は、これらが皆、その説明された答えとしてなりたっていないことです。「人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことが止まった」ことに対する答えが「本当はそうであろう」「これからはそうしよう」だとすれば前文の何を指しているかが理解できないので、解釈が付け加えられています。「本当はそうであろう」には自力のはからいに気を付けなければと自制された言葉、「これからはそうしよう」には自力のはからいを内省された言葉という解釈です。想像を膨らませ解釈しなければならないようなことを親鸞聖人は話されたのでしょうか。なぜなら恵心尼公は聖人の返答に対し再び説明を求めておられないのです。古語自体の意味よりも想像を膨らませ解釈された事によって、その後誰もが自由に超訳していいという風潮が生まれ幾通りにも解釈されていったように思います。いずれにせよこの手紙の文章の扱いには注意が必要でしょう。あいまいな解釈が教えを歪めてしまっている可能性があるからです。もっと古文にもとずいた検証がなされなければならないでしょう。もし自力であったのならば親鸞聖人は「恥ずべし」とおっしゃっていたことでしょう。しかしそうは言われず「よくよく思慮あるべし」と言われているのです。

 「唯信抄文意」には「廻心というは自力の心をひるがえしすつるをいうなり」「自力の心をすつというは、ようようさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫のみづからが身をよしと思う心をすて身をたのまず」と完結に記されています。他力に転入された親鸞聖人が、また自力の行にまいもどられたというのであれば、他力の性格自体がおかしなものになってしまいます。そして寛喜三年は「教行信証」を書き始められた七年も後のことなのです。

 

まはさてあらん深読み

 翻訳する中で気づいたことがあります。「今(ま)は」だとすれば「もはや」という意味なので、先述した文正物語や又白骨の御文の「さてしもあるべきことならねばとて(そのままにもしておけないので)」とある通り「もはやそっと(そのままに)しておこう」という訳も成り立ちます。思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことが止まった。それで「もはや そっとしておこう」と申したのだ…。これなら「自然法爾」にも通じ何とか意味も通るでしょう。聖人が発せられた言葉が「去ってあらん」なのか「然てあらん」なのか、文字の上ではどちらも「さてあらん」となるので知るよしもありません。しかし経が止まったことに対しての答えの言葉としてはやはりすっきりしません。いろんな訳を検証する上で恵信尼文書の第六通が役立ちそうです。第六通は五通目の日にちに対する訂正をされた手紙ですが、そこには「…経読むことは、まはさてあらんとおほせ候しは…」とあります。つまりこれは「経がとびでること」に対して「まはさてあらん」の言葉が、答えとして完結成立していることを表しています。

「たわごと」を「うわごと」と訳す人もいますが、聖人はうわごとなどではなく恵信尼公がそばにいたから話しかけられたのです。「たわごとを申したわけではない」と、はっきりと否定されているのですから。もしあなたが長く病で寝込んでいて誰かが心配して様子を伺いに来たと想像してみて下さい。突然その人に「本当はそうであろう」と話しかけたりするでしょうか。「これからはそうしよう」などと語りかけるでしょうか。それではまるでドラマや映画の演出のセリフのようです。答えとして成立してもいません。手紙の冒頭には「お身体に触れば、火のような熱さで頭痛も激しく尋常ではない危険な状態であられた」とあります。長く命の危険にさらされながら四日目、心配してそばに来られた恵信尼公に「魔は去ったようだ」と、ようやく口を開いて話しかけられたとみるのが自然でしょう。もちろんその苦しむ中で止まらぬ経のことが聖人の頭の中を混乱させていたので、その内容を聖人は語られたのです。恵信尼公にとってこのことは大きな出来事となり「経よむことは まはさてあらん」の話として忘れることのできない記憶になったのだと思います。

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