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                                                      日本の哲学書 「歎異抄」

 

 日本を代表する哲学者西田幾多郎は「一切の書物を消失しても歎異抄が残れば我慢できる」と言いました。ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは「今日、英訳を通じて、始めて、東洋の聖者親鸞を知った。若し10年前にこんな素晴しい聖者が東洋にあったことを知ったなら、私はギリシヤ語や、ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて世界中に弘めることを生き甲斐にしたであろう」また「ドイツには、日本の哲学者や思想家が30名近くも留学していたが、誰一人、日本にこんな偉大な人がおられたことを聞かせてくれなかった。日本の人達は何をしているのだろう」と書き残しています。野間宏、吉本隆明、五木寛之氏など多くの作家や哲学者、宗教家達が敬愛した親鸞。そのバイブルと言える書が唯円の著した「歎異抄」でした。先の戦争では多数の兵士が戦場に持って行ったといいます。「歎異抄」は、唯円が前序に「耳の底に留むる所」といわれる通り、聖人があたかもそこにおられるかのように教えを説く息吹きが感じられる唯一の書です。このことが多くの知識人を魅了してきたのでしょう。五木寛之氏は「親鸞は人間の抱えている罪や悪を、そしてその中でどう生きるかをドストエフスキーよりも千年も前にとことん追求した人」だと語っていました。親鸞聖人は29才まで、まるで地獄を覗いているかのように苦悩しています。しかし法然上人に出遇ってからの聖人の言葉にはひとかけらの迷いも曇りもありません。それが廻心により得られた他力の持つ性格だからです。地獄こそが自分の本当の棲み家と言い放ち、だから阿弥陀仏の救いに間違いはないと言いきる。生きている限り無明の闇は無くならなくとも、弥陀の本願に対する疑いの心は一切ないのです。人間の抱える底知れぬ闇を阿弥陀仏の光明が埋め尽くすと説くのです。他力の本質は親鸞聖人の生き方そのものが示していると言えます。お釈迦さまが説かれた仏教はシルクロードを渡り、東の果てである日本に辿り着き親鸞聖人によって誰もが受け取れる教えとして完結しました。それを現代まで紡いだ一番の功労者が唯円さんでありましょう。「歎異抄」の親鸞聖人の生の言葉である10条までを簡素にまとめてみました。原文と翻訳本はたくさん書店に置いてありますので、ご自分でお選びになってぜひ読んで下さい。

              

                                                                                      2019年1月16日 釈 崇 哉

 

 

前 序  

 親鸞聖人の御在世の頃と今を比べてみますと、聖人の教えと異ることが広まり、後の人達のことを思うとこのままでは心配でなりません。自分勝手な解釈で他力の宗旨を乱してはなりません。同心の人々の不審をはらす為、私が耳の底に留るところを記しておきたいと思います。 

 

第1条 他力の信心

 弥陀の誓願の思いはかることができない働きにより救われて、往生は間違いないと信て、念仏を申す縁が生まれた時、その人はもうすでに弥陀仏のふところの中にいるのです。阿弥陀仏の救いには、老人、子供、善人、悪人の区別はありません。肝要はただ念仏の衆生を救い取る阿弥陀仏の本願を信ずる一つです。何故なら罪悪がどこまでも深くて重く、煩悩が熾烈で盛んな衆生を救い取るため立ち上がって下さった阿弥陀仏のお誓いなのですから。 

 

第2条  命がけで訪ねて来られたお同行へ

 私は念仏が浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる行いなのか一切関知しておりません。たとえ法然上人に騙されたとしても微塵も後悔はないのです。何故ならどれだけ行を積んでも仏になることが適わない凡夫なのですから、どう転んでも地獄にしか行きようがない身す。しかし阿弥陀さまの本願のお救いはお釈迦さまを通し善導大師そして法然上人まで連なっ届けられたものです。ですから私が申すことも全くもって空しいものとは言えないでしょう。この愚身の信心はただこの通りです。はるばる関東から命がけでお訪ね下さいました皆さんですこれを受け取られようとも捨てられようとも、それぞれの御はからいです。私がこの他に何か特別隠し持っているようなものなどは一切ありません。 

 

第3条  悪人こそがめあて

 善人でさえ極楽に往生できるのですから、悪人は言うまでもありません。ところが世間 の人は、その反対だと言います。しかし本願他力の趣からはそうなのです。なぜなら自力の修行で善根を積む人は、本願をたのみにしないので阿弥陀仏の一番の救いの目当てとはならないのす。煩悩が身に満ち溢れた私たちは、どれほど修行を積んでも迷いの世界を流転し続け、そこから一歩たりとも抜け出ることができません。だからこそ立ちがって下さった仏さまが阿弥陀仏なのです。ですから他力によるしかないと受け取ることのできる悪人こそが阿弥陀仏の一番の救いの目当てなのです。 

 

第4条 浄土門の慈悲

 慈悲には聖道門(自力)の慈悲と浄土門(他力)の慈悲の二つがあります。聖道門の慈悲とは他人を憐れみ愛おしみ育むことです。しかしこれには限界がありどんなにかわいそうだと思っても徹底しません。これに対し他力浄土門の慈悲というのは念仏して誰もが仏になり、大慈悲心によって自在に人々を救い取ることができるのですから、まず我が身が念仏申す身となり救われることこそが、ただ唯一末徹った大慈悲心なのです。

 

第5条 供養ということ

 私は亡き父母の追善供養の為にお念仏を申したことはただの一度もありません。何故ならこの世に生きる人全てがどこかの世で父母兄弟であった人達ばかりだからです。どの人もどの人も順番にて次の生で仏となり助け合うべき人達なのです。自力の追善ならば一所懸命、父母への回向も必要でしょう。でも私にはそのような力はどこにもないのですから、阿弥陀仏におまかせし浄土の仏とならして頂いたならば、どんな業苦に沈んでいる者でも自在に縁ある人から救い取ることができましょう。

 

第6条 弟子について… 

 この親鸞に弟子などというものは一人もおりません。私が念仏を申させて救うわけではなく、全て阿弥陀仏のはたらきによるものだからです。ですから、この念仏の教えにおいては我が弟子、ひとの弟子ということがあってはならないのです。誰もが自然にお救いに遇えば仏恩も師恩も感ぜられることです。

 

第7条 障りなき道…  

 念仏の道は何ものも妨げることができない一道です。天神地祇も敬い伏し、魔界外道もじゃすることが出来ないのです。罪業の報いを感じて苦しむ人も、心配いりません。またどのような善もこれにまさるものはありません。ですから無碍の一道というのです。

 

第8条 非行非善の教え… 

 念仏は行を積むことでもなければ、善を積むことでもありません。それは私のはからいを超えた全くの他力なのですから非行、非善というのです。

 

第9条 踊り上がる程の歓喜無き身

 唯円房、あなたも私と同じ心持ちでありましたか。念仏申す身でありながら躍り上がるような喜びも、はやく浄土に参りたい気持ちもわいてきません。でもそのことを阿弥陀仏はかねてよりご承知だったのです。喜ぶべきことを抑え喜ばせないのは煩悩の仕業であり、又少しでも病気になれば死んでしまうのではなかろうかと心細くなってしまうようなこの身です。苦悩の旧里は捨てがたく、まだ見ぬ浄土は恋しく思わない凡夫です。しかし力なくこの世の縁がつきれば、浄土へ必ず参らせて頂くのです。阿弥陀仏の悲願はこのような煩悩具足の我らの為にあると思えば、ますます頼もしく思えませんか。あなたがもし喜び勇んで浄土に生まれたいとうようであれば、かえって煩悩がないのではなかろうかと不審に思わなければならないでしょう。

 

第10条      はからいなき心… 

 お念仏の救いは私のはからいが全く廃れた無義をもって義とします。称え尽くすことも説き 尽くすことも、想像することさえもできないのですから。

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