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  蓮如上人
​ 蓮  如  上  人

たとい罪業は深重なりといえども必ず

      弥陀如来は救いましますべし  

 本願寺第八代蓮如上人は今の本願寺の礎を築いた方です。第三代覚如上人は親鸞さまのご廟所を寺院化し本願寺とされましたが、宗派の中心寺院とはいかず、延暦寺門跡、青蓮院の末寺でしかありませんでした。

 

 蓮如さまは、応永22年2月25日(1415年4月13日)、本願寺第七代存如上人の長子として誕生されました。母君は存如上人の母に仕えていた女性と伝えられています。

応永27年(1420年)、蓮如上人6歳の時、存如上人が御正室を迎えることとなり、生母は本願寺をひっそりと退出されたといいます。父、存如上人の御往生後、その継承者として当然、ご内室の子であります応玄の名があがりますが、叔父である如乗が、「この本願寺を継げる者は蓮如をおいて他にはいない」と周囲を説得して回ったことによって、蓮如上人が第八代を継承されることになります。それ程、蓮如上人は幼き頃より学問に励み、お父様より教化(きょうけ)を受けておられたのでした。これは親鸞聖人の教えと異なる他派の迷信の邪偽を排斥していかれた事実を見ても明らかです。

 

 この頃、本願寺は延暦寺衆徒からお念仏の教えに対して攻撃を受けていました。蓮如上人はとうとう延暦寺に対し、上納金を収めることを拒否し決別する道を選ばれました。それより本願寺は、ますます激しい弾圧を受けるようになり、二度も破却されてしまいます。近江を転々としたあと紆余曲折を経て文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴き、小高い山の荒地に舎を建立されました。すると吉崎御坊はみるみる発展してゆき、一帯に坊舎や多屋(宿)が立ち並び、寺内町が形成されていきます。

 

 ここでの成功とここから発信された蓮如上人の精力的な布教活動こそが、今の本願寺を形造りました。親鸞聖人の教えを御文(おふみ)と呼ぶ、いわゆる手紙の形で人々に分かりやすく説かれ村々で読まれるようになっていきます。「正信偈」「和讃」を開版(印刷)し朝夕の勤行に皆で読めるようにされました。お経を、文字もしらない人たちが一同に唱和するなどという事は革命的な出来事だったと思います。後に講と呼ぶようになる惣(そう)の道場(サークル)が各地に生まれてゆくに従い、南無阿弥陀仏のお名号をたくさん書いて渡され門徒の集う場所での礼拝の対象となっていきました。そして急速に全国へ波及していくのです。吉崎を退去されて後は京都山科に住まわれ、後に石山本願寺(現在の大阪城の地)を建立されます。石山本願寺は第11代顕如上人の時代に織田信長がこの地を奪おうと本願寺に戦を仕掛けたことで有名です。

  

 現在の本願寺の体系は蓮如上人が創られたものといえます。中興の祖と讃えられる蓮如上人ですが、比叡山からの独立と消滅しそうだった本願寺を立て直し、講(門徒集団)と末寺が全国に生まれ、本願寺教団が成立していったことを考えると、親鸞聖人を七高僧に加え八高僧とし、蓮如上人を開祖と仰ぐ本願寺になっていたとしても何ら不思議ではありません。

 

 弱者が一方的に抑圧される時代にあって現代の民主主義の理想の姿を示した方であり、今では普通に存在するサークルの元を作った方でもあります。誰もやらなかったことを次々に形にしてゆき、未来を先取りしたリーダーシップを持ったお方でした。

 

 現代に生きておられたら、どういうことを考えつかれたのでしょうか…。

                                

              2016年8月 釈 崇 哉

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