真宗の心 他力本願
浄土真宗を知ることは他力本願を知ることといえます。ある会社が「他力本願から抜け出そう」という広告を全国紙に掲載し、真宗教団連合から抗議を受け、その会社がお詫びしたということがありました。「他人まかせから、抜け出そう」とすれば良かった筈ですが、わざわざ「本願」と付け足してしまうので、「ホントの意味が分かってますか?」と言われてしまうのです。
親鸞聖人は、どこにこの言葉を使ってあるかといいますと歎異抄の三条で『世の中の人はいつも、「悪人すら往生できるのだから、善人が往生できないわけがない」というけれど、これは「本願他力」のこころからは大きく外れていて、まったく逆なのです』と言われています。ここでの善人というのは自力の善行を積めば悟りが開けると思っている人の事で、「煩悩に苦しんでいる者をそのまま救い取る」という弥陀仏の願いが受け取れない人の事をさすのです。
仏さま(真実の智慧の明かり)に照らされてみますと煩悩の深さと重さを知るので、「多くの命に支えられて生きている」ことや「先祖、両親、先生、友達、縁ある人のお陰があって生かされている」ことに気づくでしょう。しかし「いいや、自分はそんな力はいらん。一人で修行を積んで何とかできる(悟りに至る)から、誰の力も借らん。と言う人は、何千年たとうが、何万年たとうが、おごりから抜けだせないので「どこまでも安らかになることは無理でしょう」と親鸞さまは教えて下さるのです。ですから「本願力(他力)におまかせします」と言える人は「みんながいてくれるお陰で今生を精一杯生きていけます」と慶ぶことが出来る人なのです。本願に出あうということは、ものの本質を照らす光に出あうことといえます。
「力」とはその「働き」のことで、親鸞聖人は「他力とは、如来の本願力」なりとおっしゃってます 。
平成28年9月 万徳寺 22世 釈 崇 哉