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 真宗の心 他力本願

   浄土真宗を知ることは他力本願を知ることといえます。ある会社が「他力本願から抜け出そう」という広告を全国紙に掲載し、真宗教団連合から抗議を受け、その会社がお詫びしたということがありました。「他人まかせから、抜け出そう」とすれば良かった筈ですが、わざわざ「本願」と付け足してしまうので、「ホントの意味が分かってますか?」と言われてしまうのです。

 

  親鸞聖人は、どこにこの言葉を使ってあるかといいますと歎異抄の三条で『世の中の人はいつも、「悪人すら往生できるのだから、善人が往生できないわけがない」というけれど、これは「本願他力」のこころからは大きく外れていて、まったく逆なのです』と言われています。ここでの善人というのは自力の善行を積めば悟りが開けると思っている人の事で、「煩悩に苦しんでいる者をそのまま救い取る」という弥陀仏の願いが受け取れない人の事をさすのです。

 

  仏さま(真実の智慧の明かり)に照らされてみますと煩悩の深さと重さを知るので、「多くの命に支えられて生きている」ことや「先祖、両親、先生、友達、縁ある人のお陰があって生かされている」ことに気づくでしょう。しかし「いいや、自分はそんな力はいらん。一人で修行を積んで何とかできる(悟りに至る)から、誰の力も借らん。と言う人は、何千年たとうが、何万年たとうが、おごりから抜けだせないので「どこまでも安らかになることは無理でしょう」と親鸞さまは教えて下さるのです。ですから「本願力(他力)におまかせします」と言える人は「みんながいてくれるお陰で今生を精一杯生きていけます」と慶ぶことが出来る人なのです。本願に出あうということは、ものの本質を照らす光に出あうことといえます。

  「力」とはその「働き」のことで、親鸞聖人は「他力とは、如来の本願力」なりとおっしゃってます 。

                                                                                          

                                                                                          平成28年9月 万徳寺 22世 釈 崇 哉

 大無量寿経の「兵戈無用」の本当の意味

 経典に書かれた御文(ごもん)が政治的に利用されているのを時々見かけます。お釈迦さまの教えがまるで偏った思想のように扱われるのは残念なことです。無量寿経下巻の「兵戈無用(ひょうがむよう)」もその一つ。  
この言葉を政治的思惑で利用するなら、国の為に働いている自衛隊の方たちを貶めることになります。国を守るのに、武器は持たずに防衛して下さいと言っているようなものなのですから。
 「大無量寿経」の中の一句に出てくる「兵戈無用」は兵戈を捨てなさいと言われたのではありません。「お釈迦様が歩かれ教えが広まる所には国も人も清らかに安住するので武器も用いる必要がなくなる。」と訳されます。つまり、仏の教えが広まればその国内は、争う必要が無くなるので安住を得られると書かれているのです。
 当然ながら世界中どこを探しても自国の防衛をしない国はありません。いえ武器も持たず、国とみなされない少数民族は大国に呑み込まれ未来が見えないのが現実です。しかもその苦しみや叫びは誰にも届きません。第二次大戦後の近代の国々ではみな戦争をする為に装備するのではなく、他国の侵略を思い留まらせる為に備えるというのが、国連で与えられた権利なのです。僧侶は安易にこの「兵戈無用」の言葉を自国や他国の権利に対して使うべきではありません。経典の心は親鸞聖人が言われたようにただ「仏法ひろまれ」なのです。
                                           
                 平成27年7月 万徳寺 22世 釈 崇 哉
  
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