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      新しい「領解文」を愁う 

 

 

1、拝読唱和としての不自然性

   

2、新しい領解文がおかしいこれだけの理

   

3、隠せない作者の筆癖

 

4、新しい領解文のベースは「般若心経」

 

5、新しい領解文の違和感の正体

 

  ①拝読唱和としての不自然性    

 

    令和5年1月新領解文突然の発布。制定方法に関する「答申」には、「念仏者として領解すべきことを、正しく、わかりやすい文言を用い、口にだして唱和することで他者に浄土真宗の肝要(安心)が伝わるものを」ということらしいのですが…。

 漁や狩りを生活の糧として生活する者は地獄へしかいけないと云われた時代、全ての者に手をさしのべている仏がいるという蓮如上人の教えに、どれだけ多くの人が救われたことでしょう。

 

「領解文」

 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ

 

 救われた心を皆で一緒に確認しあう領解文。この度、領解文にかわり唱和がすすめられている新しい「領解文」は、ほんとうに誰にも理解できる平易なものなのでしょうか。 ご安心は大丈夫なのでしょうか。初めてご縁にあう人の心に果して届くのでしょうか…。

 

「新しい領解文」

 

南無阿弥陀仏 

「われにまかせよ そのまま救う」の

                                          弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて 

この愚身(み)をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土 

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と 

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

 み教えを依りどころに生きる者 となり 

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して 

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉 

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます

 ※作者の文章表現のまま

 

  この新しい「領解文」は、最初詩の形式で始まったかと思うと、突然解説調になり、これにより同じ言葉が二度繰り返され高圧的に聞こえます。「救い取られる自然の浄土」「仏恩報謝のお念仏」は真宗用語を羅列しているだけで、他人事のようです。また師徳の部分では「…の尊いお導き」で止めるべきが「…によるものです」と、口語調に変わり、最後には強制的な心得が並びます。最初に書かれた「そのまま救う」は一体何だったのか。文体に一貫性がない為、まとまりのないものとなっています。

 

​ しかし一番大事なことは、これが蓮如上人の領解文に代わるに相応しいものなのかということです。 

 

 領解文は「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と始まります。

「その信心をとらんずるには‥ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するを持って本意とす」(御文章第二帖七)。一番初めに示された大事な文言が消えています。

 

  また念仏者の生活とされる三段には「み教えを依りどころに生きる者となり 少しずつ執われの心を離れます」とありますが、これは諸行往生の教えのようです。これは果して親鸞聖人の教えということができるのでしょうか。

    勧学寮の解説書には、親鸞聖人の御消息に『仏のちかひをききはじめしより、無明の酔いもやうやう少しづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましおうて候ぞかし』とあることを挙げ「三毒の煩悩は無くなりませんが 無明の酔いもやうやうすこしづつさめてくるに違いありません」と書かれてありました。

 

 しかしこれは親鸞聖人が「造悪無碍」を正すために使われた比喩です。「以前は無明の酒におぼれ三毒ばかりを好んでおられたことでしょう。けれども本願に出合うことによってそのことに気がつき、進んで行うようなことなどしない身となられたでしょう」と、聖教を見ることもない人達が『往生には障りがない』ということだけを聞いて間違ってこころえる人が多いことを正す為のものですので「薬あり毒をこのめと候ふらんことは、あるべくもそうらはずとぞおぼえ候ふ」と結ばれます。「薬があるから、毒を飲めということがあってはならない」ということを言われたものなのです。

 

 最後の念仏者の生活とされる第三段は、「掟(法度)」を置き換えたものなのでしょう。現在法度は時代とともに変わるものだから、宗門の決まりごとなら「何でも良い」とされ「改悔批判」で語られます。しかしこれを本来の「おふみ」として見た時、蓮如上人が一番言いたかったことはこの「掟」です。「この上は定めおかせらるる御掟」の「この上は」という言葉の意味は「このような事情を踏まえた上で」ということで、核心部分ということになります。

 

 蓮如上人は比叡山の荒法師に本願寺を破却され、近江を転々とされます。やがて吉崎に坊舎が建ち、門徒が増え始めると本願におごり問題を起こす者や他宗の人と言い争いする者が増えていきます。やがて一向一揆にまで至るようになり、再び吉崎の退去を余儀なくされます。教団が大きくなればなる程、争いが増え教団への締め付けも大きくなってゆきますから、蓮如上人にとって法度(掟)は教え同様にとても大事なことでした。掟を現代風にまとめると「この上は、教えをよく心にたくわえ世法を守り、他流の人に対してもおごること無く一生歩んでまいります」となりましょう。掟に対してあまりに自由すぎることは、新しい領解文にあるような教えとは無関係な心得を生む要因となったような気がいたします。

(2023年4月)

 

②新しい領解文がおかしいこれだけの理由

 

1、阿弥陀仏の本願は、「そのままの救い」ではない

 

  新しい領解文の中心は「そのまま救う」ということのようですが、これは布教使の方々が法話の中で二河白道の弥陀の招喚の勅命「汝一心に正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん」を言い換えた言葉です。「そのまま救う」とは「義なきを義とす」のことで私のはからいが必要ない、「自力無効」と知らるることです。ですから「そのまま救う」は弥陀招喚の勅命であって、私が「このまま」でいいということにはならないのです。そこには善知識の勧化に出遇っていただく行信が大切だと親鸞聖人、蓮如上人は強く説かれるのです。つまり弥陀招喚のそのままは、私の「このまま」ということではないのです。

 

《第十八願》

「十方の衆生、至心に信樂して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん‥」

《親鸞聖人》

「弥陀の本願には老小善悪の人を選ばれずただ信心を要とすと知るべし」

《蓮如上人》

「阿弥陀仏という四つの字は南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくいたま ふこころなり」

 新しい領解文はこのまま自然に救いとられるからありがとうといただけばよいという、おかしな文脈です。

 

2、私の煩悩と仏のさとりは一つではない

  

   新しい領解文には「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」とあります。これは煩悩即菩提という煩悩がさとりの縁となるので煩悩を離れて菩提は存在しないという大乗仏教の概念の一つですが、親鸞聖人においてはそのような解釈はされていません。親鸞聖人は七高僧を通じ常に他力におきかえた解釈をされています。

「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」

「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」

 煩悩具足の身の私が如来回向の信心によってそのまま涅槃に生まれる身になると説かれるのです。私の煩悩と仏のさとりが一つという考えは聖人にはありませんから「煩悩即菩提」と「そのまますくう」は「ゆえに」では繋がらないのです。

 

3、善知識なしでは真宗は語れない

 

  新しい「領解文」では、次第相承の善知識がさっぱり抜けて歴代宗主のみになっています。七高僧こそ、み教えを伝えて下さった大事な方々だと親鸞聖人はわざわざ、お一人お一人の名前と根拠をあげ正信偈に著しておられます。

 「真の知識にあうことはかたきがなかになお難し」(高僧和讃)

    昔から「亡き子が善知識」と云われてきましたように、善知識という言葉には深く広い世界がひろがっています。仏、菩薩まで及ぶ言葉です。消すのではなく大事に伝えていくべき大事なお経の言葉です。

 

4、何故、教えにはない心得をさしこむのか 

 

「少しずつ 執われの心を 離れます」?

 

 いずれの行にても生死を離るることあるべからざる凡夫を憐れみたまいて願をおこしたもう仏が阿弥陀仏です。執われの心を離れることができる人は他力から漏れてしまいます。

 

「むさぼりいかりに流されず」?

 

 烈しく燃え盛る火の河、荒れ狂う水の河の烈しい煩悩の中、僅か四五寸の道を信じて進めという二河白道の意味は一体何を示してあるというのでしょうか。

 

「穏やかな顔と優しい言葉 喜びも悲しみも分かち合い 」?

 

   親鸞聖人は「賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と書かれた善導大師の言葉をわざわざ読み替えて「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」と頂いておられます。浄土真宗は道徳を超え「転悪成善」と開かれてゆくところにある喜びです。

 

5、新しい「領解文」は、お聖教を書き換える行為

 

  浄土真宗の開祖を親鸞聖人とするならば、今の教団の開祖は蓮如上人だといえます。「領解文」を廃して書き換える行為は「あなたの教えは難しいので私が書き直します」と言っているようなもので、簡単に考えるべきことではありません。

 

 新しい「領解文」の解説本が出されましたが、これは依頼された勧学寮があと付けであわてて書かれたものであることがわかります。「…と見ることができます」「…ですから『ゆえ』が付加されているのでしょう」「…意味していることが窺えます」「…という意味なのでご注意下さい」など多くの混乱がみられます。多くの勧学司教の有志の方々から問題を指摘されている新しい「領解文」は、このままではのちのちまで悪文として語り継がれることになり御門主をも深く傷つけることになります。

(2023年5月)

​   ③隠せない作者の筆癖 

    新しい領解文には強い筆癖が存在します。

 

 私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

 「そのまま救う」が 弥陀のよび声

 ありがとう といただいて 

 この愚身(み)をまかす このままで

 救い取られる 自然の浄土 

 仏恩報謝の お念仏

 

  仏さまの代弁者であるかのようなこの語り口と古い言葉使いは、若いご門主さまのものとは到底思えず、浄土真宗特有の「往生」「信心」「聴聞」といったキ-ワ-ドも存在しません。また「そのまま救う」など法話でしか聞かれないような短い言葉の切り貼りでできています。そして、そもそも何故詩文なのでしょうか。

 

  筆癖は前総長の詩であらわされた著書「生きて 死ぬ力」に如実に表れています。この本は、生命科学者で詩人の柳澤佳子博士の著書「生きて死ぬ智恵」がベースになっています。柳澤博士の「生きて死ぬ智恵」は、若い時難病を煩い一時は命を断とうとまで思い詰められた博士が般若心経と出会い、自分に言い聞かせるように「空」の心を詩で表されたベストセラーになった本です。真宗の教えとは異なるものの博士の般若心経の「空」思想の表現には鬼気迫るものを感じます。「生きて 死ぬ力」はこの「生きて死ぬ智恵」を模した内容です。

 

 そして「新しい領解文」には大きな癖があります。句読点がなく、代りに特定な場所で文字空間をわざとあける短歌のような一字空けという独特な表現です。

「 ありがとう といただいて」「み教えを依りどころに生きる者   となり」などです。特にこの「と」の前での一字開けるのは作者の強い癖と言えましょう。「生きて死ぬ力」に同じように見られます。そしてこれら一字空けの特徴が多く見られる詩人がいます。東大建築科卒で昭和初期に活躍し24才でこの世を去った立原道造です。日本語では難しいと言われたソネット形式(14行詩)を取り入れた人でもあります。御門主様がこのような特殊な癖を持つ古い詩人をまねられることは考えにくいことです。

 (2023年7月)

 

 ④新しい領解文のベースは「般若心経」 

 

 「生きて死ぬ力」には、引用文を除いても「縁起」の単語が43ヶ所、「空」が28ヶ所、「執われ」が19ヶ所、「自然(じねん)」の単語が17ヶ所も出てきます。所どころに念仏者、宗教者、文化人などの言葉を引用しながらも「ただ縁起している  空なる境地がある  だけ  ただ偉大な真実が  あるだけ」と書かれています。

 

 「執われもなく  何もなく  縁起する  まま    自然(じねん)に  かえる」「こと  もの  すべて  縁起   空である  と悟り  安楽に  成る」ここでは法蔵菩薩の誓いも阿弥陀仏の救いも存在しません。

 

 親鸞聖人のご文を引用した部分は「自然(じねん)」が使われた部分、「自然の浄土」ばかりです。この本の中では親鸞聖人の言葉として「真実の 信心ただ一つで 自然の浄土に 迎えとられるのです」とありますが、もう一方で「この世の縁が つきる時 執われもなく 何もなく 縁起するまま まるまる 自然に かえる」と書かれ矛盾が生じています。親鸞聖人の説かれる「自然」には必ず阿弥陀仏の絶対他力が含まれますが、般若心経に他力の心はありません。般若心経は「空」思想が説かれ、全ての事象は不変の実体を持たず、深い智慧をみがくことにより執着を離れ、苦悩から解放されるとする行者の教えです。

 

 執着を離れることが帰結ですから新しい「領解文」第三段の「少しずつ 執われの心を 離れます」は「私の煩悩と仏のさとりは一つ」と繋がっていたようです

 

  新しい領解文の解説書を急遽依頼された勧学寮は、宗学との整合性をつける為、これを信後の念仏者の有りようということにして、解説を試みました。多く混乱が生まれるのはその為です。

 

  ご門主さまも門主を継承された時の御親教より文面を任されていたようです。伝灯報告のご親教は何故か「お釈迦さま」の話から始まり「諸行無常」「縁起」の説明がされ、親鸞聖人のことがわずかに挟まれますが又「和顔愛語」「小欲知足」の話となります。そして前総長が好んで使う「無明の酔いもやうやう少しづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして」の聖人の御消息が、やはり本来の意味からはずれ使われています。これらの内容は真宗の法話というより禅宗の説法のようです。

「領解文の名を使うことは混乱を招く」という「現代版領解文制定方法検討委員会」の答申は無視され、「新しい領解文」と名付けられ発布されてしまいました。なぜ「生きて死ぬ力」には妙好人や文化人の言葉まで引用されているにも関わらず、蓮如上人の言葉が一言も出てこないのでしょうか。

 蓮如上人は「諸神・諸仏・菩薩をもおろそかにすべからず。これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆゑなり」「掟をよく守るというは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらわに人の目にみえぬようにふるまえるをもって本意とするなり」「王法をもて、おもてとし内心には他力の信心をふかくたくはへて、 世間の仁義をもて本とすべし。これすなはち當流にさだむるところの、おきてのをもむきなりとこゝろうべきものなり」

​ と言われています。これらがみずからの思想に合わないからといって蓮如上人を排除することがあってはなりません。蓮如さまほど親鸞聖人の教えを深く学んだ方は他におられません。能化職である和上様のみならず、大多数の僧侶が反対する真宗のみ教えに程遠い新しい「領解文」。「浄土三部経」が所依の経である親鸞聖人の教えを「般若心経」を所依とする本願寺に変えることなどできません。​  

  (2023年11月)

 ⑤新しい領解文の違和感の正体 

   

 およそ浄土真宗にそぐわぬ内容と独特な筆癖の新しい「領解文」。「生きて死ぬ力」の中身は一貫して「般若心経」の「色即是空」の説明でした。

 

私の煩悩と 仏のさとりは一つ」の正体

 

生きて死ぬ力には、道元禅師の「この生死は すなわち 仏の御(おん)いのちなり」が引用され、「『生死即涅槃』 生き死にしている この無常の世界が すなわち そのまま 仏さまの境地」とあります。

 

これは曹洞宗の修証義の総序の言葉

 

「生死の中に仏あれば生死なし、ただ  生死即ち涅槃  と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり」

 

に当てはまります。ここでの「仏あれば」の意味は「仏さま」でなく「悟りの世界から見れば」の意味が近いと思います。続いてインド仏教哲学の権威だった中村元氏の言葉「高い境地から みると ただ 偉大なる一つの ことわりがあるだけで 生じても 滅してもいません ただ偉大なる 真実が そこにあるだけです」(般若心経趣旨)が引用されています。ここで中村元氏は仏(悟りの境地)を「高い境地からみると」と訳しています。中村元氏は原始仏典の本来の意味を深く追求した人です。「生きて死ぬ力」で「無常の世界が  仏さまの境地」と書かれた意味は、「仏」を「阿弥陀仏」と重ねたかったからでしょう。

 

「自然は すなわち これ 弥陀(仏)の国なり」

 

「自然の世界に お任せ 最後は阿弥陀(仏)さまに お任せ」

 

 などわざわざ、(仏)  が付け加えられているのも「仏」とあるのを「阿弥陀仏」と結びつけたい意図が感じられます。 

 

   総局主導の宗派の全国学習会では「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」というのを「仏知見から見れば…」と繰り返し説明されますが、「仏知見」(悟りの世界から見れば)と「阿弥陀仏のまなこ(約仏)」を同義で扱うことには無理があります。「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」の「仏のさとり」と阿弥陀仏のはたらきである「そのまま救う」を「ゆえ」で繋げることは困難です。

 

「新しい領解文」の始めは、なぜか前総局が削除した「浄土真宗の救いのよろこび」が利用されています。

 

〈浄土真宗の救いのよろこび〉

 

   阿弥陀如来の本願は

   かならず救うまかせよと

   南無阿弥陀仏のみ名となり

   たえず私によびかけます 

 

 「新しい領解文」(実際は前作「浄土真宗のみ教え」)では、この「浄土真宗の救いのよろこび」の中の「南無阿弥陀仏」を頭に据え、そして「かならず救う」を「そのまま救う」に変えています。それはその後にくる「自然の浄土」に意味が近かったからだと思われます。「生きて死ぬ力」の中の言葉を借りるなら「おのずと そうなる世界」です。しかしここを変えたことによって逆に出典の根拠を失ってしまっています。救いのよろこびの「かならず救う」は「摂取不捨」というお聖教の根拠が明白ですが、「そのまま救う」の言葉はお聖教には見当たりません。法話の中で「そのまま」の語を使うときに布教使ならば、その意味を説明します。「そのまま救う」を説明無しで使うと無帰命安心になってしまう惧れがあるからです。

 

 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします

 

 

 新しい「領解文」​一刻も早い取り下げをのぞみます。

 

  2024年1月16日 釋崇哉

 

 

 

   

  

 

 

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